たまにはコラム的な話しでも/スタイリング

最近は作業などの報告が多いので、たまには自分の考えている話しでもしてみます。

※物の形には「正しい形」というのはあるのか?

かなり前、小さな子供がミニカーで遊んでいる時、ふと気付いた事がある。

それはちゃんと前を向けて遊んでいる、という事。

会話さえ成立しない小さな子供が、そのミニカーの何処を見て前と後ろを判断しているのだろう?もう純粋に不思議でならなかった。

外を走っている車を見ていて、ヘッドライトが付いている方が前と判断しているのだろうか?しかしそのミニカー、ヘッドライトは付いているもののテールライトと比較しても大差ないし自分が客観的に見ても前と後ろの判断は付きづらい形状をしている。

暫く観察していると、当然子供なので何度もミニカーから手を離すのだが、持ち直したときにはやはり前を向けて遊んでいる事から、偶然ではなさそうだ。

その時考えたことは「物の形には正しい形というものが存在するのか?」という事だった。

ある製品が造られるとき、そこには必ずその物に対する対象がある。ペンであればその対象は人間の手になる、手に持って書けなければペンとしての機能が失われてしまう。もし仮に手に持てないペンが存在するのであれば、それは製品ではなくオブジェだ。

人が使う物、どこかに取り付ける物、それらは対象がある以上その対象を無視した形状にはなり得ない。だがそれをクリアした上でのスタイリングとなると、無限ではないが相当な幅が出来る。

車のスタイリングも、何m以内に納めなければならないとか突起形状は駄目とかある程度制限はあるものの、それを加味しても尚想像力のある限りの形状を造ることが可能だ。

ヘッドライトやテールライトの位置は、その歴史的価値観から大きく外す事はもう出来ないのだろう。でも制約なんてそれぐらいで、それ以外の部分をどうやって決めていくのだろうか。人が想像し考え、形作るその源は何処にあるのか。

一番理解し易いのは目的がはっきりしていてそれにしか使わない場合、早く走る為には、荷物をより多く運ぶ為には、より勾配のきつい所を上る為には等々。この場合はそのコンセプトがある程度数値化されそれに見合った形状を作り出す。

しかし普段の生活に使う車など、レースに使うような早さもいらなければトラックほど荷物を積めなくても構わない。この曖昧な部分に潜む形状の寛容性に対してどう対処すればその「正しさ」が得られるのだろうか。

やはりデザイナーのコンセプトにどれぐらい現実味があるか、そこが問われるのではないだろうか。多分好き勝手に形造っても、受け入れられないだろうし「正しさ」というものも得られない。

そのパッケージに対するデザインに方向性があり、曖昧ではあってもその製品が使われるであろうコンセプトの回答としてのデザインにどれだけ現実味が与えられるか、そしてその表現としてのスタイリングが出来れば「正しさ」が得られるのではないだろうか。

まあ抽象的ではあるけど、そんな事を考えたりしました。